๑๔ 十四
一(いち).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
無気味(ぶきみ)な敵(てき)は、“己自身(おのれじしん)”である。
二(に).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
大(おお)きな失敗(しっぱい)は、“高慢(こうまん)な態度(たいど)”である。
三(さん).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
浅(あさ)はかな行為(こうい)は、“欺瞞(ぎまん)”である。
四(よん).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
身(み)を焦(こ)がすものは、“ねたみ”である。
五(ご).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
重大(じゅうだい)な過(あやま)ちは、“己(おのれ)に敗(やぶ)れる事(こと)”である。
六(ろく).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も悪(あく)は、
“己(おのれ)を欺(あざむ)く事(こと)”である。
七(しち).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
みすぼらしいもの、それすなわち、“自己(じこ)の後退(こうたい)”である。
八(はち).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
賞賛(しょうさん)に値(あたい)するもの、それすなわち、“勤勉(きんべん)”である。
九(きゅう).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も滅亡(めつぼう)するもの、
それすなわち、“絶望(ぜつぼう)”である。
十(じゅう).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
価値(かち)ある財産(ざいさん)、それすなわち、
“完全(かんぜん)な健康(けんこう)”である。
十一(じゅういち).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
大(おお)きな責務(せきむ)、それすなわち、“恩義(おんぎ)”である。
十二(じゅうに).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
大(おお)きな贈(おく)り物(もの)は、それすなわち、“海容(かいよう)と慈悲(じひ)”である。
十三(じゅうさん).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も甚大(じんだい)な過失(かしつ)、
それすなわち、
“どす黒(ぐろ)い目(め)で世界(せかい)を見(み)ることと理不尽(りふじん)”である。
十四(じゅうよん).
我々(われわれ)の人生(じんせい)において最(もっと)も
悦(よろこ)びを感(かん)じるもの、それすなわち、“喜捨(きしゃ)”である。
出典 ที่มา : ธรรมะพระพุทธทาสภิกขุ
Photo : https://bit.ly/2DXjjo6
翻訳 การแปล : OOSHIRO
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